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『飯沢匡新狂言集』(平凡社84/9) を読む

遠くヨーロッパの民話などを尋ねて、換骨奪胎日本の狂言に生き返らせた飯沢の名翻案狂言集。明治以降の経緯も振り返りながら、新たな試みも多くつくられるよう、今後を愉しみにしたいもの。(16/7)
飯沢匡
父 の転勤先の和歌山市で生まれ、愛媛県松山市を経て東京小石川原町や巣鴨に育つ。本名は伊澤 紀(いざわただす)で、警視総監・貴族院議員・台湾総督を歴任した官僚政治家・伊澤多喜男の次男。母は色川武大の親戚の色川家の人で、飯沢と色川は「高祖父が同じ」 関係になる。母方の祖父の色川三郎兵衛は衆院議員。父方の伯父の伊沢修二は文部官僚で吃音矯正教育に貢献した。湯本武比古は義理の伯父(母の 姉の夫)にあたる。
1922年、東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)卒業。在学中は算術が苦手で家庭教師をつけられたが 成績不良であった。同年、武蔵高等学校 (旧制)尋常科に第1期生として入学。やはり数学が苦手で落第を経験。落第後の同級生に黒金泰美がいた。1925年、尋常科3年のとき 発病しサナトリウムに入院、1926年までを過ごす。
1928年、学校嫌いのため、高等科1年のとき武蔵高等学校を退学。同年、文化学院美術科に入学。1932年、文化学院美術科を卒業し、専修科(美術)に進む。
1933 年、東京朝日新聞社(現:朝日新聞東京本社)入社。在学中から長岡輝子森雅之金杉惇郎らのテアトル・コメディに参加、1932年に劇「藤原閣下 の燕尾服」で劇作家デビュー。飯沢匡という筆名は、朝日新聞社在職中、上司に隠れてNHKラジオのために台本を書いた際、アルバイトが露見しないよう NHKの担当者に「印刷しては別人に見え、アナウンサーが発音すると本名のように聞こえるという名を考えてください」と頼んだところ勝手に命名されたもの である。戦後『婦人朝日』『アサヒグラフ』編集長を務める。1954年退社。
1943年「再会」でNHKラジオ賞、1944年「鳥獣合戦」 を初演、1954年、文学座初演の「二号」で第一回岸田演劇賞、『ヘンゼルとグレーテル』でサンケイ児童出版文化賞、1957年NHK放送文化賞、 1968年『五人のモヨノ』で読売文学賞、1969年「みんなのカーリ」で斎田喬戯曲賞、1970年「もう一人のヒト」で小野宮吉戯曲平和賞、1973年 紀伊国屋演劇賞受賞、1979年「夜の笑い」の脚本・演出で毎日芸術賞、1983年日本芸術院会員。
飯沢匡喜劇全集』全6巻がある。政治風刺劇のほか、NHKの子供番組の脚本で知られた。
い わさきちひろ絵本美術館(現・ちひろ美術館)初代館長でもある。黒柳徹子とは「ヤン坊ニン坊トン坊」以来師弟関係にあり、ラジオ・テレビ・舞台と多くの作 品で競演し、極めて親密な関係であった。飯沢が亡くなって久しい今でも、黒柳は飯沢の事を話す際は常に敬語で思慕の念を込めて話している。

舞台
藤原閣下の燕尾服(初演テアトル・コメディ、1934年)
北京の幽霊(初演文学座、1943年)
鳥獣合戦(初演文学座、1944年)
崑崙山の人々(初演文学座、1951年)
濯ぎ川(初演文学座、1952年、その後狂言の演目に移植される。フランス小咄の「ル・キュヴィエ」を下敷きにしている)
二号(初演文学座、1954年、岸田演劇賞受賞)
五人のモヨノ(初演文学座、1967年、読売文学賞受賞)
もう一人のヒト(初演劇団民藝、1969年)
沈氏の日本夫人(初演文学座、1972年、紀伊国屋演劇賞受賞)
多すぎた札束(初演青年劇場、1977年)
夜の笑い(初演青年劇場、1978年、毎日芸術賞受賞)
ほか
狂言濯ぎ川

伊曽保鼠
裸大名
密か鬼
峯入り行者
放送
ヤン坊ニン坊トン坊(NHKラジオ) 1954年-1957年
ブーフーウー(以下NHKテレビ、人形デザインはすべて土方重巳) 1960年-1967年
ダットくん 1967年-1969年
とんちんこぼうず 1969年-1971年
とんでけブッチー 1971年-1974年
うごけぼくのえ 1974年-1976年
ペリカンおばさん 1976年-1977年
おもちゃおじさん 1978年-1979年
ミューミューニャーニャー(おもちゃおじさんとキャラクターは同じ) 1979年-1983年

小説
腸詰奇談(第29回直木賞候補作)